坑道の総延長は約400Km。佐渡金山
関ヶ原役の翌年(1601年)に、相川に近い沢根の鶴子銀山の山師3人が佐渡金山を発見します。
まもなく徳川幕府が関与し、大久保石見守長安が佐渡奉行となりました。慶長頃から開発が急速に
進み、産出された金銀は徳川幕府の基礎を築き、日本最大の金山としてその名は全国にとどろきます。
佐渡金山の鉱脈は東西に約3000m、南北に約600m、深さ約800mの範囲に分布し、坑道の
総延長は約400Km。 これは何と佐渡から東京までの距離に相当します。本州の一番幅の広い部
分を横断する長さです。 最盛期にはゴールドラッシュの様相を呈し、日本中から一攫千金を求めて
山師が集まりました。又その鉱山景気のおこぼれを求めて商人、遊女等種々雑多な人々が集まっ
たようです。相川の人口も急増し、5万とも10万人とも言われます。 江戸の人口が百万、ロンドン
と並んで世界で一、二であったそうですから相川が如何に大都市だったかがわかります。
しかし、食料に恵まれた島ですが、蛋白源が大いに不足したようです。
漁業資源は豊富でしたが漁労技術が低いため漁獲高が上がらず、漁業専門家を島に招きます。
主に石見国仁摩周辺の人々で、現在では相川にほど近い姫津集落に住み、大半の家が石見
苗字を名乗っています。
鉱山では労働者の不足もあり、江戸近辺の浮浪者がかなり佐渡送りになりました。
そんな事情から面白い言葉が生まれます。
「ドサクサにまぎれて」などと使う「どさくさ」です。
調べて見るとかなり信憑性が高そうです。
江戸時代、バクチ打ちをとっ捕まえては佐渡に送り、金山の人足にあてた。
役人が賭場に踏み込むと上を下への大騒ぎ。
追う者逃げる者で賭場は大混乱で、つかまって佐渡流刑になるのを「どさを食う」と言ったようです。
も一つ、「どさ回り」ってのもあります。
これも「さど」が倒語で「どさ」になり、田舎「回り」がくっついて出来た言葉って説が主流です。
落ちぶれた旅芸人が自らの田舎回りを自嘲してつけた言い方でしょうか。
ちなみに広辞苑で「どさ」をチェックしましたら、「地方又は田舎をさげすんで言う語」
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